8.ふと気づくと

2度目の月命日が過ぎました。

まだまだ、悲しみは癒えません。

むしろ増してきているような。それとも、押し込めていた感情が表に出てきたのか。

悲しいような、実は現実じゃないような…

頭では母が亡くなったことを現実として理解しているのに、何故だかなかなか混乱しています。

 

母が亡くなった日のことを綴ってみようと思います。

連絡を受けたのは母が亡くなる前日の早朝。

うっかり徹夜しちゃったけど、幼稚園に送り出してから仮眠取ればいっか、なんて思いながら朝の支度に取りかかろうとしたとき、父から電話がありました。

母の手足が紫色になってきた、という知らせ。

息子を連れ、新幹線に乗り母の元へ。

頼むから間にあって!

昼頃、病室に着き、私が「大丈夫?」と聞くと母は言葉にならない声で「大丈夫」と答えてくれました。

手足のチアノーゼは、このときは消失していました。

頑張って待っててくれたのかな。ありがとうね。

その日の夜、本当は病院に泊まりたかった。

でも息子連れて?兄のところに預けるのも、もうさんざん迷惑かけっぱなしだし。

というわけで、私と息子は実家へ。

 

その翌朝、母の状態は目に見えて悪化していました。

素人目にもあと数時間以内だろう、というのはたやすく予想がつくほどに。

7.月命日

気づけばひと月が経った。
葬儀後、私は自宅に戻りいつもと同じ育児が中心の暮らしをしている。
しばらく子供の幼稚園を休ませていたので、戻ってからはバタバタでそれこそ悲しむ間もないくらいだった。

母が病に倒れたこと、
それでも始めは笑顔だったこと、
面会にいくたびに弱っていくこと、
身の回りのことがだんだんできなくなっていくこと、
「写真がないと困るでしょ?」と母から遺影撮影を頼まれたこと、
だんだん会話もままならなくなっていったこと、
生きているのに手も足も氷のように冷たくなっていったこと、
呼吸はあるのに声をかけても反応がなくなったこと、
呼吸も心臓も止まり、医師に臨終を告げられたこと、
そして、すごくすごく穏やかな表情をしていたこと。

実はあれは夢だったんじゃないか?って錯覚してしまう。
でも確かに現実で、私の母の姿はどこにもない。
意外と大丈夫なのかもしれない、と思っていたのに今日はボロボロと涙が出る。

そんなこともあるよね。
でもしっかりしないとな。私もお母さんなんだもの。

6.最期に向けた覚悟

ホスピスから退院するときは決して亡くなったときばかりではないそうだ。
とはいえ、終末期の癌患者が入院する場所。ほとんどの患者さんは息を引き取って自宅へ帰ることになるのだと思う。

ここでは積極的な治療はせず、痛みを取り除くことが中心となる。
患者を除く、家族と病院スタッフとの面談で伝えたことは、できるだけ痛みを取り除いてやりたいということ。
そして、万が一のときの蘇生処置は希望しないこと。
蘇生処置の際、肋骨が折れて却って苦痛を与えることもあるから。
それだけしてももう治らないのであれば痛みや苦しみから解放したい。
でも、処置をすればほんの少しでも生きられる時間は延びるのだろうから、それをしないでほしいと伝えることは辛いことだった。

みんなそれぞれに覚悟は決めた。
残りの時間を少しでも穏やかに過ごしてほしい。
きっと家族全員の願いだったと思う。




5.ホスピスへ

ホスピスへ転院するにあたり、母を搬送するための介護タクシーを手配するよう、病院から言われていたのでネットで探してみた。
移動中の点滴は?モルヒネもあるし。
車椅子?ストレッチャー??
ナースステーションで相談してみよう。
すると、救急車に先生付き添いで搬送することが決まったので、車を手配する必要はないですよ、とのこと。
それなら安心!…でも、それだけ母の状態は良くないということなのか…

転院の日、病室の荷物をまとめ母の着替えなどは看護師さんにお任せ。
それが終わり、私は母の髪をとかしゴムで結った。
母は病室のベッドに寝たまま救急車で移動することになった。ストレッチャーに移すんじゃないんだ?と、驚き。そのまま救急車乗れるんだなあ…

お世話になった看護師さんたちにお礼を言う。
「お世話になりました。ありがとうございました。」
私も何度か入院の経験はあるけれど、病院を去るときあんなに悲しい気持ちになったことはない。
転院してから、どのくらい生きられるのだろう?
父は母と共に救急車へ。
私は別の車に荷物を載せて転院先のホスピスへ向かった。
泣いて事故でも起こしたりしないよう気をつけながら。

転院先のホスピスは郊外にあり、病院の最上階でとても見晴らしがよかった。
周りは住宅や田んぼ。
高い建物などに遮られることなく、壮大な岩手山を眺めることができた。
今まで見てきた山と同じ山。でもとても大きく見えた。
自然と涙が流れた。
ここが、母が最期に過ごす場所になるんだろうな。

涙を拭い、母の病室へ。
病衣に着替え少し落ち着いたところへ、看護師さんが小さな氷のかけらが入った器を持ってきてくれた。
ずっと、食事どころか口からの水分補給もままならなかった母。
小さな氷のかけらを口にしたとき、母がぱあっと明るい表情になったのを私はきっとずっと忘れない。

部屋はゆったりとした個室で、ソファベッドが置かれ家族は同室で寝泊まりができる。
この日から父は毎日ずっと泊まることを決めた。

4.がん化学療法科病棟

母が最初に入院した病院は、私が5年前に息子を出産した総合病院だった。
私が入院した産科病棟の賑やかさとは全く異なる静かな病棟。
面会室からは岩手山が見えた。
私が息子を産んだ翌朝、病室からも岩手山が見えた。3日がかりで出産したあと疲れた体を起こし窓から見えたその景色はとても清々しかった。
化学療法科の面会室から見えた岩手山は少し切なく感じた。
富士山にも似た美しい山。幼い頃から毎日のように見て育ってきた、たぶん世界で一番好きな山。

面会室はいつも静かだった。
たまにテレビを観る人、食事をとる人がいた。
あとは電話をしている人かな。
検査の結果、たいしたことなかったからすぐに退院できそうだよ、と笑顔で電話している患者さん。
患者さんのご家族の方だと思うけど、患者さんが亡くなったことを連絡している方。

一度だけ、患者さんとそのご家族と思われる人たちがテーブルを囲み食事をしているのを見かけた。
いいなあ、と思った。

二度目に母の面会に来たときは個室に移り、ほぼ寝たきりの状態になっていた。ポータブルトイレも部屋に用意されていた。 

そして予想していなかったのでショックだったのだけど、母は食事をとれなくなっていた。
食べようとしてもすぐに気持ちが悪くなってしまい、結局食べることができなくなったそうだ。
それでも一日に三回、食事の時間になると全病室に食事の時間を告げるアナウンスが流れる。
私たち家族は黙って聞き流した。
母は「いいよ。気にしないで何か食べておいで」と言った。
この時点で母に残された治療法はなく、ホスピスへ転院することが決まっていた。

3.闘病のはじまり

母が入院後、初めて病院を訪れた翌日、父と再び母の病室へ。
母は点滴をガラガラと押し面会室へ。
何か食べられないのか?と言う父に対して母は、ダメよ、詰まっている(腸閉塞)んだから危ないでしょ?と。
そして、落胆する父に母は淡々と高額療養費の説明をする。

点滴をしている。絶食。ここは病院の化学療法科病棟。
そうとは思えないくらい、母は毅然としていた。

この数日後に、ステントを入れる処置を行い、食事がとれるようになったと母自らメールで知らせてくれた。
メールには「頑張っていただきます。」
と書かれてあった。
食事をとって体力をつける。それから化学療法を受ける予定でした。

2.母が死んだ

遠方に嫁いだ私。
10数年前のその日から、ぼんやりと「親の死に目にはあえないんだろうな」と思っていた。
でもまだまだ先のことだと思っていた。
両親とも80過ぎまで元気でいるだろうと。
そこになんの根拠もないのだけど。

母が先日大腸癌で亡くなった。
年齢は、80過ぎどころかまだ60代半ばを過ぎたところ。
告知を受けたときには既に手術ができないほどの大きさになり、腸閉塞も起こしていた。
連絡を受けて私は慌てて新幹線に飛び乗った。
故郷の駅に着くまで、不安で自然と涙が出た。
駅まで迎えに来てくれた兄の車で病院へ向かう。
母は笑顔で迎えてくれた。
絶食で点滴はしているけれど、顔色も良くいつもと変わらないように見えた。
「負けないんだから!頑張るんだから!」と笑顔でガッツポーズする母。
笑顔の裏でどれだけ不安だったことか…
あの笑顔は、全て私や父、兄への気遣いだというのはわかっていた。
わかっていたから、私もできる限りの笑顔で応えた。

あの日、病室のベッドで精一杯の笑顔を見せてくれた母は、先日火葬を終えて、私が両手で抱えられるくらいの大きさの箱に納められた。
実家には祭壇が設けられ、納骨の日まで母はそこにいる。