15.2017年師走
気づけば前回の更新から一年以上経ってました。
ブログの存在をそもそも忘れかけ……
この一年にあったこと。
息子、幼稚園を卒園。小学校入学。通常クラスに在籍しつつ校内の支援学級にも週一で通うことに。
春には母の一周忌法要。
息子、小学校?授業?何それ、学校って晴れてても外で遊べないの?と困惑。
息子、夏休みなのに宿題ばっかり!なんだよこれ!と幼稚園時代との違いに困惑。宥めるのに私必死。
運動会の練習が始まり登校渋り。
運動会が終わり、登校渋りが落ち着いた頃、私はがっくりと疲労困憊。
あとはなんだっけ…。息子のADHDの投薬を開始。WISCをとり、それを元に担任の先生や支援学級の先生とも相談したり。
秋になり、学校の方も落ち着いたし〜と思っていた頃私は足首の怪我。いろいろなことができなくなり、息子大荒れ。対応する夫も大荒れ。←いまここ
殴られ、蹴られ。
怒鳴ったりやり返したりしては余計に怒りが増すだけなのでとにかく否定的な言葉を避けながら話しかけ。
なんでしょうねえ…怯えて威嚇する動物に優しく少しずつ接していく感じ?
そんな家での荒れっぷりが想像つかないと先生は話していたなあ。
このところ、学校ではすごく頑張っているそうで。その反動もあるのでしょうね。
息子は息子なりに私を助けてくれることもあれば、情緒不安定になりがちでトイレや洗面所にも1人では嫌だという。
今朝は最後まで寝ていた息子を一人寝室に残して起きていたら、目を覚ました息子にみぞおちや顔などを殴られました。
目にいっぱい涙をためていたので余程寂しかったんだろうな、と。。
だがしかし母は辛い。別にまだ早い時間だったし起こさなくてもいいか、と思っていたんだけどとにかく1人は嫌なんだな。
そういうときは可愛く甘えてくれたらなあ(´-`).。oO
天国の母さーん。どうしたらいいんだろうねえ?と遺影に向かって1人つぶやいたり。
ちょっと難しい子の育児はまだまだ困難だらけです。
14.発達障害
前回の更新から2カ月?
随分ほったらかしにしてました。
気づけば母が他界して半年。早いような、そうでもないような。
というか、母の癌告知から他界するまでの2か月の時間はそこだけ夢でも見ていたのだろうか?と未だに錯覚してしまいそうになります。
さて。今回は我が息子のこと。
母の癌が発覚し、精神的に不安定な日々を送っていた頃、園の先生から息子の発達相談を受けるよう勧められました。
先生はとても言葉を選んでいる様子でしたが私は特に驚きはしませんでした。
何故なら、それまでも健診で保健師さん、入園後も園の先生に相談したことがあるから。
いずれも「元気なだけ」と言われるのみ。
第一子ですしね。男の子ですしね。
でも、それにしても手が掛かるんですけど??
小さい子を育てている方、全然大変じゃないよ!っていう方は少数だと思います。
でもさ、でもね。うまく言えないんだけどなんかちょっと……
お母さんが不安定になると子供まで不安定になる。
心配しすぎ。
子供なんて勝手に育つ。
よく聞かれる言葉ですし、実際私もよく言われましたし、今も言われます。
先日、最初の予約からおよそ半年経った頃、診断がつきました。
中程度のADHDだそうです。
ああ、やっぱりな。
ショックではありませんでした。寧ろ、これからの育児方針を考えやすくなったと思いましたし、園への要望も伝えやすくなりました。
診断がついたころ、息子は荒れていました。
少しのミス、…例えば外に出るのに間違えて上履きを出してしまうなどを近くにいた子に
クスッと笑われると手が着けられない程怒り狂い、クールダウンさせるのに一苦労でした。
とにかく今は被害妄想や自己肯定感の低下が著しいので、まずは自信を持たせること、お友達や先生方との信頼関係を築くこと、幼稚園に行くと楽しい!と思えるようになってくれることが一番の願いです。
13.子供のこと
亡くなった母に思いを馳せるブログでもまあいいかと思ったのですが、そればかりでもしんみりするので我が子のこともときどき綴ってみようと思います。
現在、年長の男子。
大抵の男の子は元気なものですが、我が子はそれにしても元気すぎやしないか?というほど赤ちゃん時代からパワフルな子です。
大きく生まれたためか、赤ちゃんってこんなに力強いの?と戸惑うくらい力の強い子でした。
歩き始めの頃からなんとか走ろうと頑張り、歩くのさえままならないのに走ろうとするものだからひたすら転んでいましたね。
何度も走っては立ち上がり、走っては立ち上がり。それはそれは逞しく育ってきました。
人見知りもしないので、たくさんの人に可愛がられたものです。
誰にでもついて行ってしまうので心配と言えば心配でしたね。
一人っ子で親が付きっ切りで見ていられるからそうそう怖いことにはならないけれど。
1歳代後半からのイヤイヤ期に入るまでは、ずっと走っているのを追いかけるの大変だわー、ぐらいだったかな。
イヤイヤ突入してからは、とにかくすぐに手が出ることで悩み、そしてその悩みは今も継続しています。
2歳前後だとまだうまく話せないから仕方ない。言葉がもっと増えれば・・・
なんて思っていましたが、気づけば未だに?
幸いなことに明るい性格のため、お友達と遊ぶことができないわけではないし、それはそれは楽しそうに走り回っているけれど突然始まるバトル。
周りの子はそろそろ戦いごっこも卒業しつつある?けれど我が子はごっこ遊びとは明らかに違う暴力が減らない。
ですが、何かしらトリガーがなければ手も足も出しません。
もともと力強い我が子は成長と共にさらに強くなっていきます。
そのうち落ち着くかしら?と思いつつダメなときは全力で止めて叱り。
パンチにキック、回し蹴り、飛び蹴り。
それだけの技を習得?したのなら武道を指導者の元できちんとルールも含め学んでみたら伸びそうなものだけど、習うのは嫌だ、と。
何より精神面を鍛えたいのですがね。そんな親のあざとさなんて見抜いて断固拒否しているのかもしれないですね。
習い事は無理にさせるものでもないかと思いつつ、いつか機会があれば見学にとも思っています。
他の子よりやんちゃだけど、強いヒーローに憧れる男の子、という認識でいた私は少し甘かったようです。
12.夜伽
前回の更新から1か月以上経ってしまいました。相変わらずののんびりマイペース更新です。
母が退院したその夜のこと。
一膳飯とお団子の用意。
お茶碗に白米を高盛に・・・そういえば、お母さん入院してからほとんど食べられなかったんだよなあ。
と思った私は、目いっぱいお茶碗に白米を盛りつけていたところを見ていた葬儀屋さんから、それはちょっと多すぎ、とストップがかかりました。
気を取り直して、お団子を作り盛りつけ。
「このお皿はあとで割るんだよ」と聞いて、そーなの!?なんで?と驚きを隠せない私。
なかなか普段このようなしきたりについて考える機会ないですもんね・・いや、私は、ですが。
夜はまだ肌寒い季節。亡骸となった母のそばで暖房は使えません。
そして母と同じ部屋で、父と兄と私は眠りました。
眠る前、ふと私の結婚が決まったとき母が言った言葉を思い出しました。
「お嫁に行く前に家族で旅行したいね。」
結局、家族旅行は実現しないまま。
私も兄もそれぞれ家庭を持ち、再び元の4人で同じ場所で過ごしたのは母が亡くなったこのタイミング。
きれいにお化粧してもらった母はとても穏やかに眠っているだけに見えるのに、あと数日のうちに焼かれてしまうのだな、など思いながら安定剤を頼りつつどうにか眠りました。
11.退院
部屋の私物を片付けていると、葬儀屋さんが到着しました。
母に向かい合掌する葬儀屋さん。
なんで手を合わせているんだろ、寝てるだけなのに?と一瞬思い、すぐに、ああそっか、そうだった。と思い直しました。
ベッドで穏やかな顔で寝ていた母はシーツで包まれストレッチャーへ。
ここでもまた、なんでそんなすっぽりと??あ、あーそうだった。
まだ現実として受け入れてなかったんだと思います。
未だに、夢で見た景色のようなぼんやりとした記憶です。
荷物も全て片付け、がらんとした病室で父の呟き。
「今まではここに来れば会えたのにな」
駐車場に出て、ふと見上げると星が空一面に眩く輝いていました。
郊外の病院だから暗くて運転怖いな、って思っていたけど、こんなに星きれいに見えるんだー。
母の荷物を母の車に積み込み、実家へ向かいました。
10.エンゼルケア
看護師さんからこれから行う処置の説明を受け、一度家族は退室しました。
退院するときの服を準備できていなかったので、病院で用意してある浴衣から初夏らしい明るい花柄のものを選びました。
看護師さんにお化粧してもらった母の顔はとても穏やかで、本当にただ眠っているだけのように見えました。
家族で母の手足を石鹸で洗い優しくタオルで拭いて、看護師さんがお花を持ってきてくださり、母の手に持たせてくれました
私が編んだブーケも一緒に。
告知されたとき、すでにステージⅣで手術不可能でした。
「頑張るよ」と笑顔で言った母を想いながら編んだ青いバラの花。
もしも、助かるのであればコサージュとして使ってくれたらいいし。
でももしものときは旅立つときに持って行ってね。
そんなことを思いながら、母の日のプレゼントとして渡した小さなブーケ。
エンゼルケアを終えて、ここからは葬儀屋さんにお世話になります。
連絡をしたものの、到着は遅い時間になるそう。
忙しいんだな。ここ以外にも亡くなったばかりの人はたくさんいるのだろうな。
近くの店でお弁当を買い、夕食を済ませ葬儀屋さんを待つ。
その間、やはり母は静かに眠っているようにしか見えず、時折寝息が聞こえたような気がしては、ああ、違う、気のせいか。の繰り返しでした。
9.臨終
母は朝から言葉を発することができなくなっていました。
声をかけても反応はなく、苦しそうに喘ぐような呼吸をするだけ。
一見、苦しそうに見える呼吸は、下顎呼吸というもので実は苦しいわけではないんだそう。ただ、この呼吸が見られるとあと数時間~数日と言われているそうです。
「おかあさん、朝だよ。もう明るいよ?」
「ほら朝だぞ。いつまで寝てんだ?」
兄と繰り返し声をかけました。
でもやっぱり反応はありません。
瞼がうっすらあいて目が乾いてしまいそうなので、そっとまぶたを閉じてみたけどやっぱりすぐにまた少しあいてしまう。
起きて、と声をかけ続けていたら父に、もうやめろ、寝かせてやれと、止められだんまり。
看護師さんが「手を握ってあげていてくださいね」とベッドの柵をはずしてくれました。
いよいよなんだ、と分かっているのに「ありがとう」を伝えることが出来ませんでした。
言葉にしてしまったらそこで全て終わってしまいそうで。
かといって、頑張れとも言えない。もう充分頑張ったもの。
ただただ、黙って母の側にいて手を握っていました。
手も足も冷たくなってきました。
呼吸の間隔もあいてきました。
朝からずっとそばで手を握って過ごし、夕方に。
少し部屋を出て戻ると、母は呼吸をしていませんでした。
伯母たちが母の名を繰り返し呼び、そして先生に知らせました。
そして、臨終が告げられました。
このとき、自分が思っていたほど泣くことも取り乱すこともなく、ああ案外大丈夫なんだわ。と、思っていました。このときは。